2010年11月1日月曜日

シベリア抑留 


今日のつぶやき次郎
私の親父が、シベリア抑留 されて生きて帰ってきた、60年以上も前の事。 興味の無い日本人が殆どでしょう。
シベリア抑留 65年・・・・放送を見て、タイNHKワールド
「噛む力が残っていなくて死んだ人がいると、
死んだ人が食べ残したものを我先に食べた。」

「寒さであたまがおかしくなり、泳いで帰ると窓に向かって叫んでいる人も居た。」
戦争が終わっているにもかかわらず70万人近い日本人を、国益のための労働力、捕虜にし、55.000人以上を殺したソ連。
過酷な労働だけではなく、反ファシスト委員会 民主化した者から帰国さす  共産主義を叩き込まれ、共産主義(民主化)を受け入れた者から先に、帰国できた。日本人が日本人を売り 我先に帰国しようとする。 

( 日ソ共同宣言にソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。)とある
当たり前だろう、ソ連のやってきた事は 犯罪行為である。
日ソ共同宣言までの11年間、ソ連に拘束されていた日本人が大勢居た。
もっと早く 何が何でも日本政府は、ソ連に対し意見をし国際社会に訴えないといけなかった。 
それにしても腹が立つのは、当時ソ連を訪れ 帰国した国会議員のいい加減さ。この体質が昭和から平成へと。 
 政治家は、自分と自分の家族の事しか考えていない。 旧自民党政権時代から、『国家国民の富を守る』という覚悟が欠如している。

* 日ソ共同宣言 1956年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワで署名し、国会承認をへて、同年12月12日に発効
宣言の内容
日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。(サンフランシスコ条約で為し得なかった講和の成立)
日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。
ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。
ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。
ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。
日ソ両国は通商関係の交渉を開始する。(同日に通商航海条約を締結)
日ソ両国は漁業分野での協力を行う。
日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す。
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シベリア抑留(シベリアよくりゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどを中心にソビエト社会主義共和国連邦の各地に抑留し、強制労働に使役したことを指す。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられたことにより、数多くの抑留者の命が失われた。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であった。
日本人捕虜
抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている

犠牲者数
日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。
従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。

アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある

収容所での生活
日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万人ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。独ソ戦の影響かドイツ軍捕虜が最も多いのが特徴。

日本側の対応
1945年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月、ようやく「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立した。

当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという。
左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。
抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。
1993年に来日したロシアのエリツィン大統領は、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と謝意を表明した。                         シベリア抑留より 

{ソ連に日本兵を売り飛ばしたとされるのが大本営参謀の瀬島龍三。

保阪正康氏の著『瀬島龍三—参謀の昭和史—』、終戦直後、ソ連軍は、軍民合わせて約60万人以上の日本人をシベリア凍土に連行した、劣悪な条件下、過酷な労働を強制し、多くの日本人を死に至らしめた。 ...
www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/WA2-4.HTML

『 戦後、昭和天皇は、入江侍従長に、次のように語っておられる。
 《先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵を咎(とが)めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行ない、なおかつ敗戦の後も有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行なっている者である。瀬島のような者がそれだ》と。
 あの忍耐強く寛容な昭和天皇をして、かくも言わせる「瀬島」とは、一体何者であろうか!』}


《シベリアの土になれ》といって、日本人の帰国を妨害したのが日本共産党委員長の徳田球一。  
 戦前戦中と18年もの間 監獄に入れられる。  ネットより
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E8%A6%81%E8%AB%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C

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